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児童文学について、書評やコラムなど

チョコレート戦争は、何の為の争いだったのか —刊行から59年後に読む『チョコレート戦争』

会社員として勤めていた頃、子ども向けの商品の宣伝や販促を企画していた。「子どもの未来や心の成長のために」と仕事に打ち込む一方で、意に沿わない商品を売る施策を立てる時はいつもストレスを感じていた。

社会の格差は広がり、少子化が進む。こうした背景のなかで、高所得者の子どもに対するアプローチは、効率よく利益を生む。子どもを顧客として分析すること、子どもの経済力を可視化して、価値づけることは、どういう未来に繋がっていくのだろうか。企業と子どもの関係性が、企業側の倫理観だけで保たれるのか、疑問を持たずにはいられなかった。

こうした会社員経験を経て、改めて幼年向け児童文学『チョコレート戦争』を読み直した。1945年の子どもたちが、自分たちこそ「おとくいさま」だと、顧客としての価値を洋菓子屋に示す姿を、ただ「頼もしい」「かっこいい」と見ていることは出来なくなってしまった。子どもたちが将来有望な「顧客」として、企業に囲い込まれながら育つ、今の時代。彼らは「顧客」である以前に、「ひとりの人間」であることを尊重されなくてはならない。こうした意識を持って、子どもと企業の戦いである『チョコレート戦争』を読み直し、考えたことを記している。

チョコレート戦争 (新・名作の愛蔵版)

「チョコレート戦争は、何の為の争いだったのか —刊行から59年後に読む『チョコレート戦争』」

大石真による児童文学作品『チョコレート戦争』は、力強く行動する子どもたちを描き、刊行当時から人気の高い作品である。しかし私は、子どもたちが「大勝利」を収める喜ばしい場面を、違和感を抱いたまま読み終えた。チョコレート戦争は、光一と明の名誉のために、大人と子どもが対決する、というわかりやすい構図をとっているように見える。しかし実のところ、何のための争いだったのか、目的が明確でないように感じられるのだ。この点について、考察をしてみたい。

 チョコレート戦争は、光一と明が、洋菓子屋の金泉堂のショーウィンドウを割ったという濡れ衣を着せられたことが発端となって起きる。光一と明は「名誉をきずつけられ」*1 、その報復として、金泉堂と戦う決心を固める。ここでまず、光一と明の、戦いの目的が明確でない事に気づく。名誉が傷ついたのは、子ども扱いされ軽く見られたからなのか。それとも顧客として大した存在ではないと思われたからなのか。仮に、その両方が原因だとして、彼らはどのように扱われることを望んでいたのか、テクストからは読み取ることができない。もうひとつ引っ掛かるのは、明の味方についた、みどりのとった行動だ。みどりは、市の小学校すべての学級新聞に、金泉堂が「顧客」である子どもを無下にしたことを、記事として掲載する。このことが、子どもたちによる金泉堂への不買運動を巻き起こし、売上にダメージを与える。こうした動きから、みどりの戦いの目的は、子どもたちは「顧客」として大きな存在だと知らしめることだとわかる。社長もこのとき、「負けた。かんぜんに、わしの敗北じゃ……」*2 とつぶやいている。この時点ではまだ、光一と明の疑いは晴れておらず、トラック運転手の自白によりはじめて、真犯人が明らかになる。みどりの「子どもにとっては、重大なことなのよ」*3 という言葉に良心を咎められた彼は、自白するに至ったのだ。

 勝ち負けが決まったのは、金泉堂の社長が真実を知り、頭を下げた瞬間だ。ここで社長は、子どもたちを「顧客」としてだけではなく、対等な人間として敬い、ケーキをごちそうする約束をする。金泉堂の社長をはじめとする大人たちは、最終的に子どもたちの「名誉」を回復させる。ここで回復した「名誉」とは、「顧客としての名誉」ではなく「人間としての名誉」だろう。これに対し、子どもたちの「大勝利」は宣言される。

 チョコレート戦争は、光一と明が「人間としての名誉」を取り戻すための戦いだった。しかし、彼ら自身が戦いの目的を明確にできないまま、光一は猪突猛進に自らの作戦を実行、失敗してしまう。そこでみどりが活躍するが、その作戦は「顧客としての名誉」を取り戻すことを重視したものであり、それに対して社長が「負けた」と発言してしまうことで、まるで戦いの目的がそこにあったかのように読めてしまうのだ。この作品は「架空リアリズム」として高く評価されると同時に、プロットにおける書き込み不足*4や、キャラクター作り*5において問題点を指摘されている。それらの小さな問題点の積み重ねが、チョコレート戦争の本来の目的を見えづらくしてしまっているのではないか、私はそう考えている。

 

参考文献

大石真『チョコレート戦争』,1995(1973年愛蔵版初版 1965年初版),理論社,p155

水沢周「大石真作『チョコレート戦争』—編集部への手紙—」,日本児童文学者協会編『日本児童文学8 臨時増刊 現代日本児童文学作品論』,1973,盛光社,p178-p182
神宮輝夫「チョコレート戦争」,日本児童文学者協会編『日本児童文学 1991.3』,1991,文溪堂,p54-p58

 

*1:大石真『チョコレート戦争』,1995(1973年愛蔵版初版 1965年初版),理論社,p53

*2:大石真『チョコレート戦争』,1995(1973年愛蔵版初版 1965年初版),理論社,p142

*3:大石真『チョコレート戦争』,1995(1973年愛蔵版初版 1965年初版),理論社,p146

*4:水沢周「大石真作『チョコレート戦争』—編集部への手紙—」,日本児童文学者協会編『日本児童文学8 臨時増刊 現代日本児童文学作品論』,1973,盛光社,p178-p182

*5:神宮輝夫「チョコレート戦争」,日本児童文学者協会編『日本児童文学 1991.3』,1991,文溪堂,p54-p58

『目をさませトラゴロウ』に見る、人間の営みの滑稽さ

60年代幼年童話の代表作、小沢正の『目をさませトラゴロウ』の魅力を書きました。

政治について考えていると、どこか笑えてきてしまうことがあります。こんな馬鹿らしいことを真面目に批判している自分達って。しかもそれを何世紀もずっと続けているなんて。みたいな、諦めの果ての笑いです。(もちろん、それでも政治家の活動に対し意見を上げ続けなければならないのですが。)

小沢正は、そんな笑いの感覚を持っている作家なのではないかと感じています。最近の政治にイライラしている方にも、ぜひ『目をさませトラゴロウ』を読んでほしいです。こんなヒーローの登場を妄想したり、自身で目指してみたり、してみるのはいかがでしょうか。

 

 

 1965年刊行の幼年童話『目をさませトラゴロウ』は、「安保闘争の体験に根を下ろし、その体験から飛翔した作品である *1」と評された。安保闘争には多くの児童文学者達が関わり、当時早大在学中の小沢もその一人だ。この時の挫折について、無力感や倦怠感を語る者が多い中、小沢の言葉からはすこし違った感覚を見出すことができる。

 

「どういうわけか、政治的な人間のいとなみというものが、儀式ばって見えてしまうところがあってこまるのです。(略)あまりまじめにやりすぎると、かえってそれがおかしくコッケイに見えるものです。 *2

これは1988年の神宮輝夫との対談での発言だが、政治的な情勢に対する小沢の立場は、その滑稽さを俯瞰する地点に辿り着いているように見受けられる。

 

この小沢の感覚は、表題作「目をさませトラゴロウ」に表れている。この物語で小沢は、大人たちの作った〈ファンタジー世界〉の未完成さを、そこに住む〈ファンタジー存在〉に暴かせるという挑戦を成し遂げ、評価を得た。
 しかし、物語の本筋に反して、各場面は終始肩の力の抜けた雰囲気をもって展開される。ヒーローであるはずのトラゴロウは、強く勇敢であるが、のんびりうっかりしている。明らかな罠の数々にも気付かず、いろいろな事柄を忘れてしまう。動物たちも一生懸命だが、どこか的外れの行動が多い。ラストのトラゴロウの決戦の場面では、とらのすけがおおきなくしゃみをする。どうやっても緊迫しない、ユーモアが散りばめられているのだ。井上洋介の挿画もこれに拍車をかけており、この雰囲気は童話集全体に通底している。

 

 その点から私は、この作品における小沢のもうひとつの挑戦は、擬人化した動物で「人間の営みの滑稽さ」を描くことだったのではないだろうかと考えた。人間の営みは、真面目であればあるほど滑稽である。その滑稽さは、シュールな笑いだけではなく、諦めや慈しみなど、さまざまな感情を呼び起こす。安保闘争とその挫折を体験した小沢は、自らのこのメタ的な視点に気づき、それを幼年童話に織り交ぜた。〈ファンタジーの世界〉を打ち砕くヒーローの、どこか力の抜けたたたずまい。現代児童文学の幼年童話に、初めて登場したヒーロー、トラゴロウの魅力は「人間の滑稽さ」から生まれているのではないだろうか。

 

www.rironsha.com

 

参考文献
いぬいとみこ「安保批准阻止のたたかいと私」,『日本児童文学』,1960,日本児童文学社協会,小峰書店
小沢正『目をさませトラゴロウ』,1965,理論社 (初版)
小沢正『目をさませトラゴロウ』,2000,理論社 (参照)
小沢正「ファンタジーの死滅」,『日本児童文学』,1966,宣協社
神宮輝夫『現代児童文学作家対談2』,1988,偕成社
砂田弘「絶望・連帯・ユートピア−小沢正の世界−」,『日本児童文学』,1972,日本児童文学社協
古田足日「戦後の創作児童文学についてのメモ(2)―昭和三十四・五年を中心に―」,『日本児童文学』,1966,宣協社
古田足日「このごろ思うこと−政治と児童文学−」,『日本児童文学』,1960,日本児童文学社協会,小峰書店

*1:古田足日「戦後の創作児童文学についてのメモ(2)―昭和三十四・五年を中心に―」,『日本児童文学』,1966,宣協社

*2:神宮輝夫『現代児童文学作家対談2』,1988,偕成社,p48

意見を貫き通すための「ぼうけん」 ー『おしいれのぼうけん』書評


「さくらほいくえんには、こわいものが ふたつ あります。
ひとつは おしいれで、 もう ひとつは、 ねずみばあさんです。」

 

1974年刊行の幼年童話『おしいれのぼうけん』の冒頭である。お昼寝前にけんかをしていたさとしとあきらは、罰として、おしいれの上と下に入れられてしまう。おしいれの中の暗闇で、二人の前に姿を現したのは、恐ろしい「ねずみばあさん」。手下のねずみたちから逃げるため、二人は夜の中を走りはじめた。ここから、信じられないスケールの、だいぼうけんが始まる。このあらすじに懐かしさを感じた方は、大人になった今、読み返すことを強くお勧めする。

 

まず、私が印象的だったのは、人一人、車一台いない、夜の高速道路が見開きに描かれた場面だ。子どもの冒険の一場面として、70年代において最も新しい風景だったのではないだろうか。物語を手がけた古田足日は、自身の評論で、今日らしい展開を持って、普遍的行動を表現することの重要性を説いた。これは、作家が伝えたいことを、その時代において新しい手法を使い届けるべきだという考えだ。夜の高速道路は、それを田畑精一と実現させた一場面ではないだろうか。実際、絵の田畑精一は、大手町の冷たく底光りするビルの外壁を見て、なぜか保育園のことを思い出し、耳をつんざくような子どもたちの笑い声を連想したという。冷たい現代の風景と、日々取材していた保育園の日常への観察眼が、現実を超えたファンタジー世界での冒険を描き上げた。古田・田畑の「現代」への鋭い感覚は、今までにない冒険を描き出し、子どもたちを魅了し続けることになる。

 

 こうして描かれた冒険は、かつての読者から「トラウマ絵本」と言われるほどに過酷である。夜の高速道路を走り、下水道をおよぎ、それでも地下の世界からは出ることができない。しかし、さとしとあきらは、なぜこれほどに抵抗したのだろうか。「ねずみばあさん」に、ごめんなさいと一言謝れば、済む話だったのに…。
ここで、物語前半のあきらのセリフを思い出す。おしいれに入れられる前、反省を促す先生に対し、彼は「おしいれの そとで かんがえるよう。」と意見していた。しかしこの言葉は無視され、閉じ込められる。この理不尽に怒った彼は、おしいれのなかでの反省=「ねずみばあさん」への敗北に徹底的に抵抗したのだ。


 そこでやっと私は気づく。この童話は、一人の子どもが、大人に対して自分の意見を貫き通すという「ぼうけん」を描いているのだ。そのために仲間と手を繋ぎ、汗だくで走り回る。不条理な敵「ねずみばあさん」に立ち向かう壮大な勇気を持って。
今、私は、理不尽な世の中に対して、自身の意見を貫き通す勇気を持っているだろうか。暗闇の中で一人、自問する。大人にこそ、そんな機会が必要ではないだろうか。

 

参考文献
古田足日『現代児童文学論』くろしお出版.1959
古田足日「『おしいれのぼうけん』のできるまで」『日本児童文学』22巻2号,pp103-106
田畑精一「『おしいれのぼうけん』の絵について −松谷みよ子に反論する−」『日本児童文学』22巻5号,pp96-99

www.doshinsha.co.jp

 

今週のお題「読みたい本」ということで!)