wool's blog

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『目をさませトラゴロウ』に見る、人間の営みの滑稽さ

60年代幼年童話の代表作、小沢正の『目をさませトラゴロウ』の魅力を書きました。

政治について考えていると、どこか笑えてきてしまうことがあります。こんな馬鹿らしいことを真面目に批判している自分達って。しかもそれを何世紀もずっと続けているなんて。みたいな、諦めの果ての笑いです。(もちろん、それでも政治家の活動に対し意見を上げ続けなければならないのですが。)

小沢正は、そんな笑いの感覚を持っている作家なのではないかと感じています。最近の政治にイライラしている方にも、ぜひ『目をさませトラゴロウ』を読んでほしいです。こんなヒーローの登場を妄想したり、自身で目指してみたり、してみるのはいかがでしょうか。

 

 

 1965年刊行の幼年童話『目をさませトラゴロウ』は、「安保闘争の体験に根を下ろし、その体験から飛翔した作品である *1」と評された。安保闘争には多くの児童文学者達が関わり、当時早大在学中の小沢もその一人だ。この時の挫折について、無力感や倦怠感を語る者が多い中、小沢の言葉からはすこし違った感覚を見出すことができる。

 

「どういうわけか、政治的な人間のいとなみというものが、儀式ばって見えてしまうところがあってこまるのです。(略)あまりまじめにやりすぎると、かえってそれがおかしくコッケイに見えるものです。 *2

これは1988年の神宮輝夫との対談での発言だが、政治的な情勢に対する小沢の立場は、その滑稽さを俯瞰する地点に辿り着いているように見受けられる。

 

この小沢の感覚は、表題作「目をさませトラゴロウ」に表れている。この物語で小沢は、大人たちの作った〈ファンタジー世界〉の未完成さを、そこに住む〈ファンタジー存在〉に暴かせるという挑戦を成し遂げ、評価を得た。
 しかし、物語の本筋に反して、各場面は終始肩の力の抜けた雰囲気をもって展開される。ヒーローであるはずのトラゴロウは、強く勇敢であるが、のんびりうっかりしている。明らかな罠の数々にも気付かず、いろいろな事柄を忘れてしまう。動物たちも一生懸命だが、どこか的外れの行動が多い。ラストのトラゴロウの決戦の場面では、とらのすけがおおきなくしゃみをする。どうやっても緊迫しない、ユーモアが散りばめられているのだ。井上洋介の挿画もこれに拍車をかけており、この雰囲気は童話集全体に通底している。

 

 その点から私は、この作品における小沢のもうひとつの挑戦は、擬人化した動物で「人間の営みの滑稽さ」を描くことだったのではないだろうかと考えた。人間の営みは、真面目であればあるほど滑稽である。その滑稽さは、シュールな笑いだけではなく、諦めや慈しみなど、さまざまな感情を呼び起こす。安保闘争とその挫折を体験した小沢は、自らのこのメタ的な視点に気づき、それを幼年童話に織り交ぜた。〈ファンタジーの世界〉を打ち砕くヒーローの、どこか力の抜けたたたずまい。現代児童文学の幼年童話に、初めて登場したヒーロー、トラゴロウの魅力は「人間の滑稽さ」から生まれているのではないだろうか。

 

www.rironsha.com

 

参考文献
いぬいとみこ「安保批准阻止のたたかいと私」,『日本児童文学』,1960,日本児童文学社協会,小峰書店
小沢正『目をさませトラゴロウ』,1965,理論社 (初版)
小沢正『目をさませトラゴロウ』,2000,理論社 (参照)
小沢正「ファンタジーの死滅」,『日本児童文学』,1966,宣協社
神宮輝夫『現代児童文学作家対談2』,1988,偕成社
砂田弘「絶望・連帯・ユートピア−小沢正の世界−」,『日本児童文学』,1972,日本児童文学社協
古田足日「戦後の創作児童文学についてのメモ(2)―昭和三十四・五年を中心に―」,『日本児童文学』,1966,宣協社
古田足日「このごろ思うこと−政治と児童文学−」,『日本児童文学』,1960,日本児童文学社協会,小峰書店

*1:古田足日「戦後の創作児童文学についてのメモ(2)―昭和三十四・五年を中心に―」,『日本児童文学』,1966,宣協社

*2:神宮輝夫『現代児童文学作家対談2』,1988,偕成社,p48