wool's blog

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意見を貫き通すための「ぼうけん」 ー『おしいれのぼうけん』書評


「さくらほいくえんには、こわいものが ふたつ あります。
ひとつは おしいれで、 もう ひとつは、 ねずみばあさんです。」

 

1974年刊行の幼年童話『おしいれのぼうけん』の冒頭である。お昼寝前にけんかをしていたさとしとあきらは、罰として、おしいれの上と下に入れられてしまう。おしいれの中の暗闇で、二人の前に姿を現したのは、恐ろしい「ねずみばあさん」。手下のねずみたちから逃げるため、二人は夜の中を走りはじめた。ここから、信じられないスケールの、だいぼうけんが始まる。このあらすじに懐かしさを感じた方は、大人になった今、読み返すことを強くお勧めする。

 

まず、私が印象的だったのは、人一人、車一台いない、夜の高速道路が見開きに描かれた場面だ。子どもの冒険の一場面として、70年代において最も新しい風景だったのではないだろうか。物語を手がけた古田足日は、自身の評論で、今日らしい展開を持って、普遍的行動を表現することの重要性を説いた。これは、作家が伝えたいことを、その時代において新しい手法を使い届けるべきだという考えだ。夜の高速道路は、それを田畑精一と実現させた一場面ではないだろうか。実際、絵の田畑精一は、大手町の冷たく底光りするビルの外壁を見て、なぜか保育園のことを思い出し、耳をつんざくような子どもたちの笑い声を連想したという。冷たい現代の風景と、日々取材していた保育園の日常への観察眼が、現実を超えたファンタジー世界での冒険を描き上げた。古田・田畑の「現代」への鋭い感覚は、今までにない冒険を描き出し、子どもたちを魅了し続けることになる。

 

 こうして描かれた冒険は、かつての読者から「トラウマ絵本」と言われるほどに過酷である。夜の高速道路を走り、下水道をおよぎ、それでも地下の世界からは出ることができない。しかし、さとしとあきらは、なぜこれほどに抵抗したのだろうか。「ねずみばあさん」に、ごめんなさいと一言謝れば、済む話だったのに…。
ここで、物語前半のあきらのセリフを思い出す。おしいれに入れられる前、反省を促す先生に対し、彼は「おしいれの そとで かんがえるよう。」と意見していた。しかしこの言葉は無視され、閉じ込められる。この理不尽に怒った彼は、おしいれのなかでの反省=「ねずみばあさん」への敗北に徹底的に抵抗したのだ。


 そこでやっと私は気づく。この童話は、一人の子どもが、大人に対して自分の意見を貫き通すという「ぼうけん」を描いているのだ。そのために仲間と手を繋ぎ、汗だくで走り回る。不条理な敵「ねずみばあさん」に立ち向かう壮大な勇気を持って。
今、私は、理不尽な世の中に対して、自身の意見を貫き通す勇気を持っているだろうか。暗闇の中で一人、自問する。大人にこそ、そんな機会が必要ではないだろうか。

 

参考文献
古田足日『現代児童文学論』くろしお出版.1959
古田足日「『おしいれのぼうけん』のできるまで」『日本児童文学』22巻2号,pp103-106
田畑精一「『おしいれのぼうけん』の絵について −松谷みよ子に反論する−」『日本児童文学』22巻5号,pp96-99

www.doshinsha.co.jp

 

今週のお題「読みたい本」ということで!)